工房 竹火目

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聖書の神とは

2025年4月7日

はじめに

現代の日本人にとって神とは最も身近で最も理解できないものではないかと思います。日本列島には津々浦々神社があり様々な神が祀られていますが、神とは何かを知らないからです。現在の神社とは日本文化の一側面として旅行で行く場所、またはパワースポットとして行く場所というのが大半でしょうが、戦前までは全く違う扱いでした。かつての日本人の神に対する情熱は激しく神の為に生き神の為に死に自分が神となりました。当に神の国でした。しかしこのような行動に駆り立てた神とは一体どのような存在なのでしょうか。

イエス・キリストを信じる前の私は完全なる無神論者でした。科学こそが世の問題の全てを解決できると信じていました。しかし科学の欺瞞に気づきフラットアースで神の存在を知ることにより、聖書の世界をへと足を踏み入れました。すると今度は様々な神に対する理解の混乱が生じました。それらは大体このようなものです。

  1. 神は唯一であるというキリスト教の教理
  2. 日本の神々との関係

初めに(1)についてですが、聖書を読めば読むほど、神が唯一であるということに対しての矛盾と思える箇所が多々あることに気づくのですが、長い年月信じられてきた教理を無視することもできずジレンマが生じます。またそれらの註解を読んでも、納得できるような答えになっていないというのも上げられます。

そして(2)について言えば、日本の古文書においては、日本の神は複数存在し、しかも神と人が共に生きている様子になっています。因みにこれは日本に限った話ではなく似たような多神教国家も同様となります。そしてこの場合、聖書を勉強すると大きな問題に直面してしまいます。即ち、(1)故に自国の文化と二者択一を迫られ、聖書の神を信じる事が自国の文化を否定する事につながるというものです。実際私は一時期そうでした。

このように(1)の教理は大きな仕切り板になっています。ここで(1)をもう少し詳しく見ると以下のようになります。

  1. 神と呼ばれる存在は聖書の神しかいない
  2. 神は複数存在するが聖書の神は唯一である

大体このような二種類に分けられますが、現在の私はと言えば実は(A)と(B)の両方を否定しています。故に(1)を否定してをり、このように考えています。

「神と呼ばれる存在は複数存在し、かつ聖書の神も複数存在する」

この結論を得た時とても楽になりました。聖書の神を信じても自国の文化を否定する必要がなくなったからです。ではなぜそのように至ったかを以下に記したいと思います。この結論は私の実体験から得られたものです。

私の体験

以下は私が以前別の記事で記した神の体験ですが、まず初めにそれをまとめそれから自身の考えを書きたいと思います。
体験1 神に祝福を受けた
日付 令和元年10月頃(正確な日時は覚えていない)
場所 佐川急便大分営業所の倉庫
内容 作業中に突然脳内に祝福を告げる言葉が響いた
経緯 個人事業主として宅配業に従事しており佐川急便で働いていた。朝6時頃、当該場所で軽バンへの荷物の積み込み作業中に突然ライオンが吠える時のようなくぐもった声で「博信、お前を祝福しよう」という声が脳内に響いた。これは多くの人が同様な作業をしているときに起こった事で、他の人々には全く聴こえていないようであった。
体験2 神に車を受けられた
日付 令和2年10月
場所 エネオス系列の某業者
内容 車のナンバーが体験4からイエス・キリストの再臨日と関係していた。また車検証交付年月日がこの日を希望した訳ではないのに10月23日になっている。これは後の黙示録の研究から分かった事であるが、イエス・キリストが123という数字と深く関係しているということと、黙示録でいう終末が1844年10月23日(SDA教会の研究を元にしています)から始まった事を暗示させていると考えている。以下の写真は当時の車検証である。
経緯 当時業務で使用していた車(かなり年式が古かった)のエンジンの不調が突然起こり始めた為、中古の車の購入を決意する。配達業務中に何となく中古屋を物色し目星をつけていた当該業者で車を購入した。また配達業務では黒ナンバーが必要なので取得も依頼した。因みに黒ナンバーは自由に番号を選ぶ事ができず役所の発行を受けとるのみである。
体験3 車のナンバーと自身の誕生日の関係性が示された
日付 令和4年5月頃
場所 自宅
内容 車のナンバー「58−21」と私の誕生日「12月2日」を足し、左はその年齢の時の西暦を表し、右側は誕生日から経過した日ということが示されたような気がした。ただしこの時はあまり確信がもてず58+12をしなかった。故にこの時は、2027年12月23日と理解していた。
経緯 サンライズミニストリー様のyoutube番組の中で地球の歴史6千年の終わりがいつかという研究がありその中で、2027年がその終わりの年ではないかというのがあった。そこで何気に自分は何歳かと計算すると58歳となった。そのとき突然車のナンバー「58−21」が頭に浮かび、21は何だろうと思った瞬間「誕生日から経過した日」というのが頭に浮かんできた。つまり足せということかと思い、58には意味があったので、そのままにし私の誕生日12月2日から21日目は12月23日となる。よって2027年12月23日という日を得た。
体験4 392(日本語で御国)という数字を通し二人の証人が示された
日付 令和4年7月下旬
場所 自宅
内容 126代目の天皇である今上陛下と266代目の教皇である現ローマ教皇の数字を足すと392になるということが示された。この392とは日本語で御国であり天国を意味する。この時はまだこの意味が不明であったが、後の黙示録の研究からこのお二方が二人の証人であることが分かった。
経緯 朝、竹細工のヒゴを作っていた時、以下のように導かれた。
1:少し休憩している時にスマートフォンにて暗殺された安倍首相の国葬日が決まるというニュースを読む
2:亡くなった安倍首相の67歳という年齢が気になり、以前ネットで目にした安倍首相の影武者説を思い出し、なぜか267という数字を脳内で作る
3:突然ローマ教皇が266代目であったことを思い出す
4:この瞬間、若い女性の声がして「足してみて」という声が脳内に響く
5:何と足すのかと考えた時、突然今上陛下が脳内に浮かぶ
6:126代目だと知っていたので、266+126=392となった
体験5 イエス・キリストの再臨日が示された
日付 令和4年8月7日夕刻(16時〜18時の間)
場所 大分市内
内容 Amazonの荷物を配送していた夕刻、かつて経験したことのないような大粒の雨による豪雨となり、薄暗い中次々ときらめく稲妻と雷鳴が轟くなか、2040年12月23日という数字が示された。この時はまだこの意味が不明であったが、後の黙示録の研究からイエス・キリストの再臨日であることが分かった。
経緯 何の変哲もない1日の始まりで午前中は快晴であった。以下のような順序で再臨日は導かれた。
1:一軒目の配達先はマンションで、部屋番号が1202号であった。その部屋のピンポンを押した。
2:二軒目の配達先もマンションで、しかも同じ部屋番号であった。この時少し珍しいと思った。なぜなら私の誕生日は12月2日で、連続して同じ部屋番号になったことは記憶になかったからです。
3:午前中の配達が終わり、弁当を買うためにスーパーに行く。弁当と飲み物だけを買い571円だった。日本語で571は「来ない」と読めるので心に引っかかった。体験3で得た数字の意味が分からず常に考えていたからです。以下、その時の決済を示すアプリ画面。

4:午後からは天気が崩れ始め黒い雲が市内を覆い始めた。
5:夕刻、完全に天気が崩れ、かつて経験したことないような大雨と雷と雷鳴が発生した。
6:この天候の中配達を続け、車中にいた時ふと前の車のナンバーが目に入った。「12−02」です。その日3回目となり、瞬間あれだと閃いた。
7:体験3で得た数字は不完全で、58と12を足せという事だと理解した。本当の意味は、私が70歳と21日目の日で、2040年12月23日の事だと分かる
体験6 自室に置いていた竹細工のヒゴが切れた
日付 令和4年9月頃
場所 自宅
内容 部屋の中央に置いていた竹細工のヒゴが突然切れてバラっとなっていた。作って何年も経過しているものとはいえヒゴ自体の劣化は見られず突然切れるとは考えにくい。以下の写真の上部持ち手の部分。

さらに切断面を寄せて撮った写真

節との境界線で切れているので竹ヒゴではよくある切れ方ですが、この部位に曲げの力が集中して働かないとこうはならない。この竹ヒゴは2m位の長ヒゴで持ち手の部分にぐるぐると巻いていたもので、自然に切れる可能性はゼロではない。
経緯 これは当時通っていた竹細工教室の卒業製作で作った物で、私の将来の為の試作物です。この造形は聖書の世界観をイメージして作った物で、持ち手の部分がファーマメントつまり天国のことですが、をイメージしています。またこのヒゴが切れたのは丁度自分に起こった不思議をまとめている時であったので、これも神からの示しと解釈した。竹を聖書の葦に対応させると、折れやすい葦が折れているという意味にもとれる。
体験7 突然二つの数字が示された
日付 令和4年12月14日
場所 大分市内
内容 311と600という数字が示された。これは後の黙示録の研究からラオデキヤ教会時代に関係することが分かった。
経緯 朝、配達業務中コンビニで買い物をしてレジにて311円と表示されたとき、全身が痺れるような強い衝撃を受けた。また午後イオンで買い物をしてレジにて600円と表示された時も同様の衝撃を受けた。この時この二つの数字にはなにかしら特別の意味があると悟った。特に311に関しては、一週間位前に突然3.11東北大震災が脳内に思い出されていた。
体験8 応神天皇がイエス・キリストであることが示された
日付 令和5年1月2日
場所 宇佐神宮の境内
内容 宇佐神宮へと導かれ向かって左側の拝殿、即ち八幡大神(応神天皇)がイエス・キリストであることが示された
経緯 実家がある宇佐に正月帰省しその帰り道、車で駅館川に架かる橋を通過中、「お参りしたら。皆喜ぶよ」という体験4の時と同じ女性の声が脳内に響いた。これは宇佐神宮へお参りせよとの意味だと理解しその場所へ向かった。拝殿まで進みお参りしたが、全くなっていなかったようでやり直しを命じられ、途中まで下山していたがまた登り返し再度参拝すると、「主は左よ」という声が脳内に響いた。

考察

上記の体験1から体験8までを元に神の特徴をまとめると以下のようになります。

  1. 神は複数存在する
  2. 神には女神が存在する
  3. 神は人の脳内に言葉を伝える事ができる
  4. 神は人を操れる
  5. 神は数字を使って意思を伝達できる
  6. 神は気象を操作できる
  7. 神は人間の目には魔法と言えるような不思議を行える
  8. イエス・キリストは応神天皇であった

これは私が体験した事実です。神とはとてつもなく人間を超越した存在であり、私はその姿を目で見てはいませんが、実際に存在しているということです。以下に上記のいくつかの考察を書きます。

(α)神は複数存在する
私は、ライオンのようなくぐもった声と女性の声を聞いていますので、唯一の神とは言えないと考えています。また女性の声に関しては、初めて声が聞こえた時にはそのお姿もイメージとして脳内に示されました。それは以下のようでした。

「海辺の砂浜の上に、背が高くかつ細身で、ひざまでのスカートを履いた女性が一人で立っていた。OLのような服装のイメージです。顔は逆光だったので見えなかった。」

次に神は唯一と解釈されている代表的な聖書箇所を取り上げて確認します。

・申命記6:4
KJV版:「Heare, O Israel, the Lord our God is one Lord.」
口語訳版:「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」

非常に短い文ですが、KJV版を直訳すると口語訳版にはならないと考えています。その理由は、文法的にLordは固有名詞で唯一のものを表し不可算名詞だからです。つまりthe Lordの場合は、theが付くことでLordが不明確な固有名詞であることを表しているので、複合体全体を表す意味となります。よって山脈のようなイメージとなりLord一家のようなニュアンスとなります。one Lordの場合も同様に、oneは数の事を表している訳ではなく、状態の事を言っているのではないかと思います。よって直訳するならば、「聞け、イスラエルよ、我々の神、主(一家)は、一体の主である」となると思います。つまり、KJV版では主(Lord)という単語は神が複数集まった集合体であるということを言っており、神が唯一であることを言っている訳ではないと思います。また、その他多くの箇所でこの、the Lord、the God、one Lord、one Godが使われていますが、同様の意味ではないかと思います。

・創世記18:1ー3
KJV版:「And the LORD appeared vnto him, in the plaines of Mamre: and he sate in the tent doore, in the heat of the day.And he lift vp his eyes and looked, and loe, three men stood by him: and when he saw them, hee ranne to meete them from the tent doore, and bowed himselfe toward the ground,And said, My Lord, If now I haue found fauour in thy sight, passe not away, I pray thee, frō thy seruant:」
口語訳版:「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。」

この箇所もthe LORDを主一家として意味を捉えると、三人の主という言葉に対しても何も違和感がなくなります。またMy Lordはアブラハムの目の前にいる主を表しています。つまりアブラハムは実際に三人の神に会ったという解釈を自然にすることができます。

・出エジプト記20:3
KJV版:「Thou shalt haue no other Gods before me.」
口語訳版:「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

このotherという単語は二者択一を表すので、other Godsの反対側のthe Lordが実は複数形を表しているで、Godsという複数形になっていると思われます。ここは十戒の第一条ですが、ここを言い直すと「あなたは他の神々ではなく、the Lordに属する神々を自分の神とせよ」という意味となると思います。

・創世記1:26
KJV版:「And God said, Let vs make man in our Image, after our likenesse and let them haue dominion ouer the fish of the sea, and ouer the foule of the aire, and ouer the cattell, and ouer all the earth, and ouer euery creeping thing that creepeth vpon the earth.」
口語訳版:「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。」

この有名な箇所も、神が複数存在すると解釈するなら素直に読み解けます。また神と人間は似ているわけですが、アブラハムはその違いを知っていたので上記の創世記18:1で三人の人を見た時、主であると即座に分かったと解釈できます。
(β)神には女神が存在する
(θ)を参照
(γ)神は人の脳内に言葉を伝える事ができる
私の経験では耳を通して音によって言葉が聞こえてくるわけではなく、直接脳内に言葉やイメージが現れます。この事は聖書にも幾つか書かれています。代表的なものを以下に挙げます。

・創世記15:1
KJV版:「After these things, the word of the LORD came vnto Abram in a vision, saying; Feare not, Abram: I am thy shield, and thy exceeding great reward.」

・使徒行伝9:4
KJV版:「And he fel to the earth, and heard a voice saying vnto him, Saul, Saul, why persecutest thou me?」

ただしこれは注意が必要です。自身でも脳内で言葉やイメージを作る事ができるからです。
(θ)イエス・キリストは応神天皇であった
これは私が神から示されたとても信じがたい話ですが、同時に世間には何一つこれを証明できるものはないと思います。そもそも日本の古代史自体が深い霧に包まれているのは皆様の知るところです。しかしこの関係を私なりに探した時、日月神示を通してこの関係が成立するかもしれないという所までを見い出しましたので、以下に記したいと思います。

この日月神示は私が解いたヨハネの黙示録と恐ろしほど高い相関を持っています。黙示録はダニエル書の2300の預言が終わりその次の日である1844年10月23日から2044年9月7日までの約200年間の事を記述していると解きましたが、日月神示は1944年6月10日に初めて岡本天明に神示が下ろされました。それから次々と神示が降りてきましたがそれは今後100年間の事を述べていると解釈できる神示があります。即ち2044年までのこととなりこれは黙示録の中間地点から最後までに相当します。この両者の高い相関は多々ありますが、二つの代表的なものを以下に挙げたいと思います。

9月8日の仕組み
日月神示には9月8日という日が頻繁に出てきますが、これは神と獣が分離して新しい時代が始まる日という意味で使われています。私が解いた黙示録でも2044年9月8日から新しい時代が始まります。即ち、このような関係が言えると考えています。

2044年9月8日(黙示録)=9月8日の仕組み(日月神示)

立秋、イエス・キリストの再臨
日月神示には「秋立ったら」という言葉がよく出てきますが、これはイエス・キリストの再臨日が示される事であり、神の収穫の事であると思います。例えば、この神示です。

上つ巻第8帖:「秋が立ったら、この道開くかた出て来る」

秋が立つとは立秋の事で8月7日です。私ごときで誠に恐縮ですが私にイエス・キリストの再臨日が示された日は令和4(2022年)年8月7日です。

このように日月神示は黙示録と高い相関を持ちます。これ故に、聖書と日月神示の著者が同じあるとの説を立てる事ができます。ここでいう著者とは内容を下ろした神の事です。そして日月神示では自らをこのように表現しています。

天つ巻第26帖:「天の日津久の神と申しても一柱ではないのだぞ、臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのだぞ。」

実はこれは申命記6:4と全く同じです。

KJV版:「Heare, O Israel, the Lord our God is one Lord.」

つまり聖書の神とは天の日津久の神だと言えると思います。即ち、

the Lord = 天の日津久の神

この関係が見出せたなら、イエス・キリストとは天津神であり、天の日津久の神の主神であり一柱である可能性が高いということです。そして天皇とは天津神である神武天皇からの万世一系なので、全ての天皇は天津神であるわけですので、天津神であるイエス・キリストは天皇である条件を満たすというところまで持ってくる事ができます。

そしてもし、天皇は必ず天の日津久の神の一柱であるという事が証明できたのらな、イエス・キリストは天皇であるということはほぼ証明できるのではないかと思います。