現代の日本人にとって神とは最も身近で最も理解できないものではないかと思います。日本列島には津々浦々神社があり様々な神が祀られていますが、神とは何かを知らないからです。現在の神社とは日本文化の一側面として旅行で行く場所、またはパワースポットとして行く場所というのが大半でしょうが、戦前までは全く違う扱いでした。かつての日本人の神に対する情熱は激しく神の為に生き神の為に死に自分が神となりました。当に神の国でした。しかしこのような行動に駆り立てた神とは一体どのような存在なのでしょうか。イエス・キリストを信じる前の私は完全なる無神論者でした。科学こそが世の問題の全てを解決できると信じていました。しかし科学の欺瞞に気づきフラットアースで神の存在を知ることにより、聖書の世界をへと足を踏み入れました。すると今度は様々な神に対する理解の混乱が生じました。それらは大体このようなものです。
- 神は唯一であるというキリスト教の教理
- 日本の神々との関係
初めに(1)についてですが、聖書を読めば読むほど、神が唯一であるということに対しての矛盾と思える箇所が多々あることに気づくのですが、長い年月信じられてきた教理を無視することもできずジレンマが生じます。またそれらの註解を読んでも、納得できるような答えになっていないというのも上げられます。
そして(2)について言えば、日本の古文書においては、日本の神は複数存在し、しかも神と人が共に生きている様子になっています。因みにこれは日本に限った話ではなく似たような多神教国家も同様となります。そしてこの場合、聖書を勉強すると大きな問題に直面してしまいます。即ち、(1)故に自国の文化と二者択一を迫られ、聖書の神を信じる事が自国の文化を否定する事につながるというものです。実際私は一時期そうでした。
このように(1)の教理は大きな仕切り板になっています。ここで(1)をもう少し詳しく見ると以下のようになります。
- 神と呼ばれる存在は聖書の神しかいない
- 神は複数存在するが聖書の神は唯一である
大体このような二種類に分けられますが、現在の私はと言えば実は(A)と(B)の両方を否定しています。故に(1)を否定してをり、このように考えています。
「神と呼ばれる存在は複数存在し、かつ聖書の神も複数存在する」
この結論を得た時とても楽になりました。聖書の神を信じても自国の文化を否定する必要がなくなったからです。ではなぜそのように至ったかを以下に記したいと思います。この結論は私の実体験から得られたものです。
上記の体験1から体験8までを元に神の特徴をまとめると以下のようになります。
- 神は複数存在する
- 神には女神が存在する
- 神は人の脳内に言葉を伝える事ができる
- 神は人を操れる
- 神は数字を使って意思を伝達できる
- 神は気象を操作できる
- 神は人間の目には魔法と言えるような不思議を行える
- イエス・キリストは応神天皇であった
これは私が体験した事実です。神とはとてつもなく人間を超越した存在であり、私はその姿を目で見てはいませんが、実際に存在しているということです。以下に上記のいくつかの考察を書きます。
(α)神は複数存在する
私は、ライオンのようなくぐもった声と女性の声を聞いていますので、唯一の神とは言えないと考えています。また女性の声に関しては、初めて声が聞こえた時にはそのお姿もイメージとして脳内に示されました。それは以下のようでした。
「海辺の砂浜の上に、背が高くかつ細身で、ひざまでのスカートを履いた女性が一人で立っていた。OLのような服装のイメージです。顔は逆光だったので見えなかった。」
次に神は唯一と解釈されている代表的な聖書箇所を取り上げて確認します。
・申命記6:4KJV版:「Heare, O Israel, the Lord our God is one Lord.」口語訳版:「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」非常に短い文ですが、KJV版を直訳すると口語訳版にはならないと考えています。その理由は、文法的にLordは固有名詞で唯一のものを表し不可算名詞だからです。つまりthe Lordの場合は、theが付くことでLordが不明確な固有名詞であることを表しているので、複合体全体を表す意味となります。よって山脈のようなイメージとなりLord一家のようなニュアンスとなります。one Lordの場合も同様に、oneは数の事を表している訳ではなく、状態の事を言っているのではないかと思います。よって直訳するならば、「聞け、イスラエルよ、我々の神、主(一家)は、一体の主である」となると思います。つまり、KJV版では主(Lord)という単語は神が複数集まった集合体であるということを言っており、神が唯一であることを言っている訳ではないと思います。また、その他多くの箇所でこの、the Lord、the God、one Lord、one Godが使われていますが、同様の意味ではないかと思います。
・創世記18:1ー3KJV版:「And
the LORD appeared vnto him, in the plaines of Mamre: and he sate in the tent doore, in the heat of the day.And he lift vp his eyes and looked, and loe,
three men stood by him: and when he saw
them, hee ranne to meete
them from the tent doore, and bowed himselfe toward the ground,And said,
My Lord, If now I haue found fauour in thy sight, passe not away, I pray thee, frō thy seruant:」口語訳版:「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、言った、わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。」
この箇所もthe LORDを主一家として意味を捉えると、三人の主という言葉に対しても何も違和感がなくなります。またMy Lordはアブラハムの目の前にいる主を表しています。つまりアブラハムは実際に三人の神に会ったという解釈を自然にすることができます。
・出エジプト記20:3KJV版:「Thou shalt haue no
other Gods before me.」口語訳版:「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」このotherという単語は二者択一を表すので、other Godsの反対側のthe Lordが実は複数形を表しているで、Godsという複数形になっていると思われます。ここは十戒の第一条ですが、ここを言い直すと「あなたは他の神々ではなく、the Lordに属する神々を自分の神とせよ」という意味となると思います。
・創世記1:26KJV版:「And God said, Let vs make man in
our Image, after
our likenesse and let them haue dominion ouer the fish of the sea, and ouer the foule of the aire, and ouer the cattell, and ouer all the earth, and ouer euery creeping thing that creepeth vpon the earth.」口語訳版:「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。」この有名な箇所も、神が複数存在すると解釈するなら素直に読み解けます。また神と人間は似ているわけですが、アブラハムはその違いを知っていたので上記の創世記18:1で三人の人を見た時、主であると即座に分かったと解釈できます。
(β)神には女神が存在する
(θ)を参照
(γ)神は人の脳内に言葉を伝える事ができる
私の経験では耳を通して音によって言葉が聞こえてくるわけではなく、直接脳内に言葉やイメージが現れます。この事は聖書にも幾つか書かれています。代表的なものを以下に挙げます。・創世記15:1KJV版:「After these things, the word of the LORD came vnto Abram in a vision, saying; Feare not, Abram: I am thy shield, and thy exceeding great reward.」
・使徒行伝9:4KJV版:「And he fel to the earth, and heard a voice saying vnto him, Saul, Saul, why persecutest thou me?」
ただしこれは注意が必要です。自身でも脳内で言葉やイメージを作る事ができるからです。
(θ)イエス・キリストは応神天皇であった
これは私が神から示されたとても信じがたい話ですが、同時に世間には何一つこれを証明できるものはないと思います。そもそも日本の古代史自体が深い霧に包まれているのは皆様の知るところです。しかしこの関係を私なりに探した時、日月神示を通してこの関係が成立するかもしれないという所までを見い出しましたので、以下に記したいと思います。
この日月神示は私が解いたヨハネの黙示録と恐ろしほど高い相関を持っています。黙示録はダニエル書の2300の預言が終わりその次の日である1844年10月23日から2044年9月7日までの約200年間の事を記述していると解きましたが、日月神示は1944年6月10日に初めて岡本天明に神示が下ろされました。それから次々と神示が降りてきましたがそれは今後100年間の事を述べていると解釈できる神示があります。即ち2044年までのこととなりこれは黙示録の中間地点から最後までに相当します。この両者の高い相関は多々ありますが、二つの代表的なものを以下に挙げたいと思います。
・
9月8日の仕組み
日月神示には9月8日という日が頻繁に出てきますが、これは神と獣が分離して新しい時代が始まる日という意味で使われています。私が解いた黙示録でも2044年9月8日から新しい時代が始まります。即ち、このような関係が言えると考えています。
2044年9月8日(黙示録)=9月8日の仕組み(日月神示)
・
立秋、イエス・キリストの再臨
日月神示には「秋立ったら」という言葉がよく出てきますが、これはイエス・キリストの再臨日が示される事であり、神の収穫の事であると思います。例えば、この神示です。
上つ巻第8帖:「秋が立ったら、この道開くかた出て来る」
秋が立つとは立秋の事で8月7日です。私ごときで誠に恐縮ですが私にイエス・キリストの再臨日が示された日は
令和4(2022年)年8月7日です。
このように日月神示は黙示録と高い相関を持ちます。これ故に、聖書と日月神示の著者が同じあるとの説を立てる事ができます。ここでいう著者とは内容を下ろした神の事です。そして日月神示では自らをこのように表現しています。
天つ巻第26帖:「天の日津久の神と申しても一柱ではないのだぞ、臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのだぞ。」
実はこれは申命記6:4と全く同じです。
KJV版:「Heare, O Israel, the Lord our God is one Lord.」
つまり聖書の神とは天の日津久の神だと言えると思います。即ち、
the Lord = 天の日津久の神
この関係が見出せたなら、イエス・キリストとは天津神であり、天の日津久の神の主神であり一柱である可能性が高いということです。そして天皇とは天津神である神武天皇からの万世一系なので、全ての天皇は天津神であるわけですので、天津神であるイエス・キリストは天皇である条件を満たすというところまで持ってくる事ができます。そしてもし、天皇は必ず天の日津久の神の一柱であるという事が証明できたのらな、イエス・キリストは天皇であるということはほぼ証明できるのではないかと思います。